REPORTAGE / 2004–2010

横山春光の中国武術留学記

先人を信じるな

北京・志強武館

2004年12月末、アパート探しに明け暮れて2週間ほど経ったある日、『北京・志強武館』付近の食堂で一人で夕食を摂っていると、阿甄に声をかけられました。「今日、事務室で横山が最近武館に来ないって噂になってたよ」。

これは大変! と思い、翌日は朝早くから武館へ行き、事務職員の方に「来月ビザの関係で一時帰国しますが、すぐに北京に戻ってきて太極拳の学習を続けたいので、引き続き陳項老師にご指導を賜りたく思っています」という内容を伝えました。伝えるといっても片言の中国語と筆談でしたが、どうやらうまく伝わったようでした。

毎週土曜日の朝に公園で行われていた陳項(チェン シィアン)老師のプライベートな練習会には参加していたのですが、武館での授業は、言葉の問題でスケジュールを把握できていなかったことと、アパート探しで市内へ出ていたせいか、何回か欠席してしまっていたようなのです。

武館では、陳項老師に混元太極拳四十八式と、それから混元太極刀も教えていただいていました。公園で初めて見た時に太極拳とは少し違うと感じた太極刀だったので、私はとても嬉しくて、右手と左手、左右を持ち替えて、何度も基本の動作を繰り返し練習しました。

ある日、太極拳の用法を習っている時に、陳項老師は私にこうおっしゃいました。

「ホンシャンはこれで勝とうとしなくていい。もし大男が習いに来ても、『私はあなたに、あなたの力をもっと使えるようにする方法を知っている』と言いなさい。自分で力を見せる必要はない。方法を知っている、と言えばいい。それが指導者の資格だ」

それを聞いた時、私は体は強くなくても頑張って学んでいけば、いつか正しい太極拳の先生になれるかもしれない、という目標ができたような気がしました。

もうアパートの方もほぼ決まりそうで、気持ちも落ち着いてきたので、一時帰国までの残りの時間は武館に通い、太極拳の学習に専念することにしました。

久しぶりに武館へ授業を受けに行くと、いつものように数人の中国人の学生さんたちと一緒に、陳項老師が入口から入ってこられました。

「一緒に授業を受けてもいい」ということだったので、私は端っこで大人しく、皆さんの授業に参加することにしました。

その日は地方から来られたというその学生さんたちの最後の授業だったので、たくさんの質問が出ていました。

方言が聞き取れない私は、何をお話しているのかよくわからなかったのですが、なにやら難しそうな内容で、陳項老師の表情や口調も厳しかったので、少し緊張しました。

しばらくすると学生さんたちはホテルのチェックアウトの時間があるというので、授業は早めに終わることになり、残りの時間は、私が陳項老師に練習を見ていただけることになりました。

賑やかだった空間が急に「シーン」としてしまったので、なんだか申し訳ない気持ちになった私は「何か質問をしなければ」と思い、陳項老師に向かって、なるべく専門的な質問をしようと口を開きました。

「老师、我想问一下……」
 (老師、質問があるのですが……)

ところが、あれこれ考えても、結局一言も出てきませんでした。

モゴモゴしていると、陳項老師は突然、武館の壁に掛けてある継承者の写真や中医学の図解を指差すと、

「不要相信他们! 不要相信那些书!」
(先人たちを信じるな! 古い書を信じるな!)

と、私に向かって厳しい口調でおっしゃったのです。

日頃、陳項老師は先人を敬い、礼節を重んじる方だったので、私は自分が聞き間違ったのかと思い、茫然としました。

困惑している私を見ると、陳項老師はまたいつもの穏やかな表情に戻り、ゆっくりと一言ずつ、丁寧に私が理解できるように説明してくださいました。

「いいかい、先人たちは実に偉大なものを発見し、私たちに遺してくれた。しかし彼らはもう死んでいるんだ。古文書は大昔に書かれたものだ。しかし私たちは今を生きている。横山、お前も生きている、私も生きている、いま生きている物を見るんだ」

私は中国語が分からないときにいつもそうしているように、全身全霊を集中させて、陳項老師が伝えようとしてくださっていることを理解しようとしました。しかしその時は、ただただ圧倒されるだけで、何一つ理解することはできませんでした。

それでも、なんとなく感じたのは「理論にとらわれるな、知ったかぶりをするな」という意味ではないか、ということでした。

後日談

陳項老師の言葉は、その後も私の心に残り、何度も立ち返ることのできる大切な言葉となりました。

理論や古典を学ばなくてよい、ということではないと思います。なぜなら陳項老師ご自身が、先人の教えを深く学び続けている方でした。理論や権威にとらわれず、今、生きている人間と、その身体を見なさい。私は今、あの言葉をそう受け止めています。

初出 2010年6月

つづく